細石流(ザザレ)集落はあと2戸を残すのみ
細石流集落はあと2戸を残すのみの集落だ。1971年に約30戸の住民が福岡県行橋市に集団移住し、20戸が細石流集落に残された。残った20戸も、都会に出て行った子どもたちが年取った親を引取り、次々といなくなり、集落に住む人は減少。漁業を営む畑田吉男さん(67)と畜産業の息子さんの2戸だけが残る集落となってしまった。「集落がなくなることは仕方がない。人が少ないことで困ってはいないよ。何せ棺桶に片足突っ込んでいるから(笑)」と畑田さんは明るく笑う。畑田さんは一本釣りの漁師だ。12月から1月にかけて潜りでアワビやサザエを採る。春はウニ漁、夏はイサキ、秋から正月にかけて鯛やブリを採る。漁には年間120~130日は出る。細石流(ザザレ)墓地まで案内していただくことになった。
畑田吉男さん(67)
細石流墓地は山の頂上にある
細石流墓地は山の頂上にある。集落からは徒歩で約15分の登り道。かつて住宅や芋畑だった石積みの階段を上がると墓地に到達する。「ここは昔、椿油を絞っていた家があった」と畑田さん。井戸があるところは、住宅地であったことの判別がつく。住宅が海辺近くにあり、その上に芋畑があり、またその上に墓地がある集落の構造と芋とツバキ油と漁業で生計を立てていた生活の構造が今でも見てとれる。今はツバキの原生林が繁茂し、石垣しか残っていない。石垣がイノシシに壊され、細石流集落は徐々に自然へと帰るのだろうか。この墓地は重要文化財に匹敵する価値があると聞いたが、多くの観光客がこの地に踏み込み、静寂を壊すような場所ではあってはならないとも思う。
キリスト教に自由が与えられたモニュメントでもある
細石流墓地は明治6年以降に作られた。明治6年にキリスト教の禁教が解かれ、この墓地が出現する。墓地は今まで人目をはばかり潜行した、キリスト教に自由が与えられたモニュメントでもある。明治政府は明治6年に陰暦を廃止し、太陽暦の導入を図る。潜伏キリシタンの人たちが、先祖代々守り続けてきた「耶蘇の暦」が採用されたことを意味している。墓碑には西洋歴の年号がひときわ大きく刻まれているのに気がつく。見どころは中央に鎮座するロレンソ栄八の墓碑。これは6角形の棺型の墓碑だ。この他に配石墓、立墓形、伏碑型などがある。しかし、近年、これらの墓は末裔たちによる墓じまいが行われ、倒された墓石が園内に置かれていることが目に付くようになった。まさしく、重要文化財的な価値のある墓地なだけに残念である。(資料:五島・久賀島キリスト教墓碑調査報告書「復活の島」、長崎文献社)
ロレンソ栄八の墓碑(棺型)
立墓型
伏碑型
墓じまいのため横倒しで放置される墓石
十字架