久賀島 希望の担い手、繁殖農家の畑田さん

畑田幸彦さん

日本農業新聞コラム(2020年2月16日)転載禁止

人口300人の久賀島を訪問しはじめ、限界集落の衰退は止められないと初めから思っていた。高齢者が多く、担い手もおらず元気がないと現場に深く入らず考えていた。しかし、地域に入ると畜産業が頑張っていると住民がみな口を揃えて言う。この島で畜産業を営むのは11戸。この中で一番若く、一番大きく畜産業を営んでいるのが、畑田幸彦さん(34)だ。畑田さんが住む細石流(ざざれ)集落はあと2世帯、6人。消滅危機を救うのは畑田さんのような若い担い手の存在だということが分かった。集落の人数ではない。彼の姿を追う畜産後継者も島内からも福江島からも生まれている。このまま集落は消滅しない。猪之木地区の牛舎で畑田さんに話を聞いた。

島を離れようとは思わなかった。

畑田さんは畜産農家の2代目だ。地元久賀中学校を卒業し親元就農した。久賀島には高校がなく、中学を卒業すると島を離れ、寄宿生活をしなくてはならない。しかし畑田さんはこの島を出ようとは思わなかった。高校に進学して勉強しようと思わなかった。7人兄弟の長男であり、長男が親の跡継ぎとして生きることは当然であると考えていた。父親は主に漁業を営み、幸彦さんが畜産業を担い、家族の生計を支えてきた。他の兄弟たちは成長し、みな島を出て長崎県内や福江島で働いているとのことだ。一家が住んでいるのは、久賀島の北西端にある細石流集落だ。港から最も遠い地区で、自動車で40分はかかる。昔は山腹に100軒ほどの家が点在していたが、今は独立した畑田さん一家と親の2世帯のみしか住んでいない。細石流を訪れ集落はあと2世帯と聞き、風前の灯火と思っていたが、畑田さんの3人家族と両親家族3人の2世帯。風前の灯火ではなかった。限界集落ではなかった。大きな希望の火があった。

18歳で牛舎を建設

畑田さんは18歳の時に、国や県の補助金を受け、同時に融資を受けて近代的な牛舎を細石流地区に建設した。建設から15年がたち、借金は今年すべて完済できるという。また2年前には、猪之木地区に同じく国や県の補助金と融資を受けて2棟目の牛舎を建設した。現在この2棟の牛舎で、52頭の黒牛を飼う島内最大の繁殖農家に成長した。繁殖農家の仕事は親牛を育て、子牛を生み、9か月から10か月間の飼育を経た後に市場に売ることだ。福江島には市場があり、雄の子牛は去勢して1頭80万円、雌の子牛は1頭70万円で販売している。これらが全国の肥育農家に引き取られ、日本有数のブランド牛に成長するのだ。畑田さんは、来年度は40頭の子牛を販売する計画だと話す。

親牛を飼育する猪之木地区の牛舎

2棟目となる猪之木地区の牛舎外観

年2回の牧草栽培

親牛には等級があり、購入して育てる。親牛に餌を与え毎年出産させる。親牛は一生の中で12回程の出産を経て老廃として安値で売られる。猪之木地区で親牛を育て、出産が近くなると、住んでいる家の近くにある細石流地区に親牛を移動し、ここで出産。子牛も細石流地区で育て出荷する。また飼料となる牧草は農地を9丁借り耕作している。このため大型の耕運機を導入。毎年2回、4月と9月に種を蒔き収穫をする。島内の農家から米わらをもらい、これらから農耕飼料としてつくり、牛に供給している。

大型の農耕機が揃う車庫(猪之木地区)

牧草は年2回耕作(猪之木地区)

畑田さんは目指される存在

15歳で就農。18歳で牛舎を建設。15年かけて融資を返済し、2年ほど前には新しい牛舎を建設。最大60頭の飼育が見えている。畑田さんは久賀島が生き残るための具体的モデルを見せている。畑田さんという具体的なモデルがあり、島内には親の畜産業の跡を継ぐ若者も生まれると聞く。取材当日は牛の角切の現場を見せていただいた。応援に駆けつけた有吉理樹也さん(30歳)は岡山市出身。お母さんのふるさとが五島市長手町。高校を卒業し母の実家の畜産を手伝い12年目だ。6頭の牛飼いとジャガイモ生産をする農家だ。80代のおじいさんと農業に励んでいる。しかしそれだけでは喰えない。彼は港から猪之木の牛舎まで40分歩いてやってきた。畜産やるなら30頭。嫁をもらい子どもを育てるなら40頭と明るく笑う。将来は、畑田さんのような畜産農家になりたいと話す。若い二人が力強い。移住者が新しいしごとで脚光を浴びる時代であるが、汗をかいている彼らのような存在にもっと光が当たってもよいのではないか。日本の農業の現場頑張れ。

左から畑田幸彦さんと有吉理樹也さん

writer : 「久賀島Life」編集長 斉藤俊幸